「死」について・・・
リンク先の宮子あずささんの「ほんわか博士生活」。
「フェミニストの立場で生き抜いた母・吉武輝子(1931-2012)の遺作『わたくし、八十歳になりました』をPDFで公開いたします。」とのこと。で、読んでみることとしました。で、p.36にあった文章。
「これまで、よりよく生きればよりよく死ねると、真面目に思い込んできた。だけどね、多くの死につき合っていると、人にはつまはじきされている極道者が安楽死を遂げるかと思うと、本当に優しくて人柄のいいひとが阿鼻叫喚の死を遂げる。人間は生まれるときにも何一つ選べないけれど、人生の幕引きの死も、死ぬときも死に方も選べない。だから選べるときに、選びながら生きていくのが一番なのよね」
母である故吉武輝子さんが娘であり看護師である宮子さんの言葉にショックを感じるシーン。確かに、ショックを受ける言葉です。
明日は、東日本大震災からちょうど10年。多くの人々が、強制的に、無念の「死」を迎えざるを得ませんでした・・・「よりよく生きればよりよく死ねる」という思いをいとも簡単にひっくり返す大災害。「どうしてなんだ?」「なぜ東北なんだ?」「なぜこの方々が?」と、情け容赦のない自然の無差別な仕打ちに、絶望した人も多いかと思います。
昔と違い、日本では戦争もなければ、餓死する人もほとんどいません。平均寿命は世界でも指折りの水準で、実際の「死」の瞬間に直面することが難しくなってきました。私自身も、53歳まで生きてきて、人の「死」の瞬間に立ち会ったことは皆無と言っていいほど。いとこが事故で入院してその後亡くなったというのが唯一かもしれません。ですので、「安楽死」も「阿鼻叫喚の死」も目撃したこともなく、「死」というものに無知としか言いようがありません。
しかし、東日本大震災の被災者は、まさに、間近で多くの「死」と遭遇し、自分自身も「死」と紙一重だったわけです。その恐怖感、喪失感、絶望感・・・私の想像を超越しており、不用意に語ることができないし、語る資格もありません・・・
10年目を迎える明日は、「死」とは無慈悲かつ不可避なものと再認識してしまう日となりますが、やはり、愛する人が絶望の中で失意に打ちひしがれて生きることを故人も望んでいないでしょうし、生かされている我々は、その生かされていることに意味を成すべく生きていかざるを得ないのでは・・・と個人的に思っています。
よりよく生きればよりよく死ねるとは限らない・・・それがわかっていたとしても、よりよく生きたいし、生かされているだけの責務を果たしたい。そんなことを考えてしまいます。